運命の出会いまで
じいちゃんは、大正9年に佐賀県多久市の弥助(so, my Grand-grandpa、以下ヒイジイ)という名のとある鍛冶屋の家に生まれた。
ヒイジイは、松原鍛冶屋で修行し、各地を巡って腕を磨き、故郷である多久の地で鍛冶屋をしていたのだ。
じいちゃんもやはり息子。12才の頃からヒイジイから鍛冶を学び、鍛冶の道を歩んでいた。
じいちゃんを含むヒイジイ一家が、佐世保のとある田舎の相浦橋のたもとで『村正』の名を掲げて刃物屋の営みをはじめたのは、昭和10年のことだった。
(ということは、当時じいちゃんは16才そこそこ。青春真っ只中で、おねぇちゃんとお茶したり、うら若き心をときめかせる・・・、なんて暇や、時代ではなかったのだろうか。今や知る由はないが。あの、頑固じいちゃんがどんな青春時代をおくっていたのだのだろうか気になるところではある。)
村正をはじめた頃の佐世保は、軍需景気に涌き、また、相浦周辺には大小いくつもの炭坑があり、農作物や魚は飛ぶように売れていたという。
もちろん、鍛冶の仕事も事欠かなかった。
ヒイジイとヒイバア(この頃はどのヒイバアだ?うちには、5人のヒイバアがおりまして、、、これはまた別のお話で・・・。)は仕事に励み、近くに古くからの鍛冶屋があったにもかかわらず、順調に『村正』の信用を広げていった。
当然、鍛冶の手伝いを続けていたじいちゃんは、どんどんと腕を磨いていったのである。
じいちゃんは、その技術をいかして海軍工廠の造機部鋳造課に就職した。
しかし、昭和16年太平洋戦争中、兵隊にとられ、蹄鉄工務兵として中国南部からシンガポール攻略戦、ビルマ戦線のラシオ、フーコン、メイクテーラなどの戦地に赴いた。
この戦地に出ている間、もっぱらの仕事は軍馬の蹄鉄係で、連隊の装蹄競技会で優勝したこともあるそうだ。
(『馬の世話をしていたから馬が命を助けてくれた、と思った』と、聞いたことがある。)
そんなこんなで、なんとか生き延びて昭和21年7月に日本へ帰ってくることができた。
(まだ、結婚も子どももいなかった頃。帰ってきたから私がいるのだ。)
海軍工廠で当時最新鋭の機械や道具を見てきたじいちゃんは、5年ぶりでヒイジイの鍛冶屋を見て、「これじゃあ、1日かかってもほんの少しの仕事しかできない。」と、電動ハンマーを導入し、近代的な鍛冶屋へと転身した。
そして、日本に帰ってきた翌年の昭和22年、じいちゃんは運命の出会いをすることになる。
(いやはや、当人どうしが運命の出会いと思っていたかどうかはわからないが、その子孫たちにとってみりゃ、それが定めでよかったなーと。)